金ヶ崎(かねがさき)の戦い(1570年)は、織田信長の生涯において最も窮地に立たされた「絶体絶命の撤退戦」として知られています。別名「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」とも呼ばれます。
信長が天下取りへの階段を駆け上がる途中で起きた、衝撃的な裏切りとドラマについて解説します。
信長は、越前(福井県)の朝倉義景を討つため、同盟相手である徳川家康とともに軍を進めていました。順調に朝倉方の城を落としていたその時、衝撃的な知らせが届きます。
知らせを受けた信長は、当初「そんなはずはない」と否定したと言われますが、事実だと悟るや否や、即座に撤退を決めました。
全軍が壊滅するのを防ぐため、敵の追撃を食い止める最も危険な役目「殿」に志願したのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)でした。
この敗北は、その後の戦国史に大きな影響を与えました。
| 人物 | 役割 | その時の行動 |
|---|---|---|
| 織田信長 | 総大将 | 挟み撃ちを察知し、即座に京都へ脱出。 |
| 浅井長政 | 裏切り | 朝倉との旧誼を選び、義兄・信長を急襲。 |
| 木下秀吉 | 殿(将) | 「死に役」を引き受け、秀長らと殿を完遂。 |
| お市の方 | 連絡者 | (伝説では)陣中見舞いの小豆の袋の端を縛り、袋のネズミであることを兄・信長に伝えたとされる。 |
この戦いで秀吉とともに死線を越えた弟・秀長は、この後に信長から与えられた「長浜」での統治において、兄を支える行政官としての才能を開花させていきます。
秀長が長浜でどのような役割を果たしたのか、続けてお話ししましょうか?
織田信長の激動の生涯を年表形式でまとめました。
| 西暦 | 和暦 | 年齢(数え) | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1134年 | 天文3 | 1歳 | 誕生。 尾張国(愛知県)那古野城主・織田信秀の次男として生まれる(幼名:吉法師)。 |
| 1551年 | 天文20 | 18歳 | 家督継承。 父・信秀の葬儀で抹香を投げつけるなどの奇行が伝わる。 |
| 1560年 | 永禄3 | 27歳 | 桶狭間の戦い。 大軍を率いる今川義元を奇襲で討ち取り、名を上げる。 |
| 1567年 | 永禄10 | 34歳 | 美濃平定。 斎藤氏を滅ぼし、拠点を岐阜に移す。「天下布武」の印を使い始める。 |
| 1568年 | 永禄11 | 35歳 | 上洛。 足利義昭を奉じて京都に入り、実質的な天下人への道を歩みだす。 |
| 1571年 | 元亀2 | 38歳 | 比叡山延暦寺の焼き討ち。 敵対した仏教勢力を徹底的に弾圧。 |
| 1573年 | 天正元 | 40歳 | 室町幕府滅亡。 対立した将軍・足利義昭を追放。信長包囲網を突破。 |
| 1575年 | 天正3 | 42歳 | 長篠の戦い。 鉄砲隊を活用した戦術で武田勝頼の騎馬隊を撃破。 |
| 1576年 | 天正4 | 43歳 | 安土城築城。 琵琶湖畔に巨大な安土城を築き、支配の象徴とする。 |
| 1582年 | 天正10 | 49歳 | 武田氏滅亡。 宿敵だった甲斐の武田氏を完全に滅ぼす。 |
| 1582年 | 天正10 | 49歳 | 本能寺の変。 天下統一目前、明智光秀の謀反により本能寺にて自害。 |
織田信長(おだ のぶなが)は、戦国時代の終焉を決定づけた「天下布武」のカリスマです。
古い慣習や既得権益を次々と打ち破り、中世から近世へと日本をアップデートさせた革命家と言えます。彼の功績と人物像を4つの視点で解説します。
信長は、愛知県の小さな大名の家に生まれました。
信長は戦い方を根本から変えました。
信長の強さの源泉は、圧倒的な「経済力」にありました。
| 政策 | 内容と効果 |
|---|---|
| 楽市・楽座 | 商売の自由化。経済の活性化と情報収集。 |
| 関所廃止 | 物流の円滑化。軍隊の移動スピード向上。 |
| 鉄砲の量産 | 堺などの商人を通じて最新兵器を大量確保。 |
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という句(後世の作)で表現されるように、非常に冷徹な一面を持っていました。
「戦国一の美女」と称えられ、織田信長の妹として生まれましたが、その生涯は戦乱の波に翻弄された壮絶なものでした。
| 年(西暦) | 年齢(数え) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1547年 | 1歳 | 織田信秀の娘として尾張国(愛知県)に生まれる(諸説あり)。 |
| 1567年 | 21歳 | 兄・信長の命により、北近江の浅井長政と結婚。 |
| 1569年 | 23歳 | 長女・茶々(後の淀殿)誕生。 |
| 1570年 | 24歳 | 金ヶ崎の戦い。浅井氏が織田家と断交。信長を窮地に追い込む。 |
| 1573年 | 27歳 | 小谷城落城。 夫・長政と父・久政が自害。お市と三姉妹は織田家に救出される。 |
| 1582年 | 36歳 | 本能寺の変。 兄・信長が自害。清洲会議の結果、柴田勝家と再婚し北ノ庄城(福井県)へ。 |
| 1583年 | 37歳 | 賤ヶ岳の戦い。 勝家が羽柴秀吉に敗北。北ノ庄城にて勝家と共に自害。 |
お市の方は、1547年頃に織田信秀の娘として生まれました。織田信長とは13歳ほど年が離れていたと言われていますが、信長は彼女の美しさと聡明さを非常に可愛がっていたと伝えられています。
1567年頃、信長の同盟戦略の一環として、北近江(滋賀県)の有力大名・浅井長政に嫁ぎました。
1573年、兄・信長によって浅井氏の居城・小谷城が攻め落とされます。 夫・長政は自害しますが、お市と3人の娘たちは信長によって救い出され、その後は織田家で保護されることになりました。
1582年、本能寺の変で信長が倒れると、織田家の重臣であった柴田勝家と再婚します。 しかし、翌1583年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家は羽柴(豊臣)秀吉に敗北。勝家の居城・北ノ庄城(福井県)が包囲された際、お市は秀吉からの助け出しの申し出を断り、夫・勝家と共に自害しました。享年37歳。 この時、3人の娘たちだけを城から逃がし、秀吉に託しました。
お市の方が命を懸けて守った3人の娘たちは、後に日本の歴史を左右する存在となります。彼女が37歳という若さで自害を選んだ際、娘たちに「織田と浅井の血を絶やさぬように」と伝えたという話もあります。
敗走
織田軍勢により壊滅
🙂 山の上にあります。ロープウェイを降りてか... 山の上にあります。ロープウェイを降りてからも10分ぐらい足場の悪めの階段を登り降りするので、歩きやすい靴がいいです。
🙂 現在の天守は空襲で焼失したため1959年... 現在の天守は空襲で焼失したため1959年に復元したもの。
🙂 「観音堂」のある高台よりさらに上った「大... 「観音堂」のある高台よりさらに上った「大津そろばんの碑」のある高台からの景色が最高です。
🙂 時の権力者であった白河法皇(1053-1... 時の権力者であった白河法皇(1053-1129年)でさえも「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧)。これぞ朕が心にままならぬもの」と言うほど延暦寺は強大な力を誇ったが、戦国末期に織田信長(1534...
浅井・朝倉軍約2万と織田・徳川軍約3万の戦い
信長を祀る神社