最澄(さいちょう/767年 - 822年)は、平安時代初期の僧侶で、比叡山延暦寺を拠点に天台宗を日本に広めた開祖です。
空海が「天才」と称されるのに対し、最澄は「努力と誠実の聖者」と評されることが多い人物です。日本仏教の母山と呼ばれる比叡山を築き、後の鎌倉仏教(浄土宗、禅宗、日蓮宗など)に続く流れを作りました。
最澄の思想の根本は、法華経に基づいた「すべての人は平等に救われる」という考え方です。
最澄が人生の後半を捧げたのが、「大乗戒壇」の設立です。
よく比較される二人ですが、その性質は対照的です。
| 項目 | 最澄 | 空海 |
|---|---|---|
| 性格 | 真面目、厳格、学者肌 | 社交的、万能、天才肌 |
| 拠点 | 比叡山延暦寺(滋賀・京都) | 高野山金剛峯寺(和歌山) |
| 思想 | すべての人は仏になれる(法華経) | この身のまま仏になる(即身成仏) |
| 後世への影響 | 鎌倉仏教の祖師の多くを輩出 | 真言密教を完成させ、庶民に浸透 |
比叡山は、後に法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮といった日本仏教の巨星たちが修行した場所であり、「日本仏教の母山」と呼ばれます。最澄が築いた基礎がなければ、後の日本文化は全く違うものになっていたかもしれません。
| 年齢(数え) | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1歳 | 767年 | 近江国(滋賀県)に生まれる。幼名は広野(ひろの)。 |
| 12歳 | 778年 | 近江国分寺の行表(ぎょうひょう)に弟子入りする。 |
| 14歳 | 780年 | 得度(出家)し、「最澄」と名乗る。 |
| 19歳 | 785年 | 東大寺で受戒。その後、世俗化した奈良を離れ比叡山へ入る。 |
| 22歳 | 788年 | 一乗止観院(後の延暦寺 根本中堂)を創建。 |
| 31歳 | 797年 | 内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)となり、天皇の側近として仕える。 |
| 36歳 | 802年 | 高雄山寺(神護寺)で天台の教えを講じ、桓武天皇の厚い信頼を得る。 |
| 38歳 | 804年 | 遣唐使として中国(唐)へ渡る(空海と同じ船団)。天台・禅・密教を学ぶ。 |
| 39歳 | 805年 | 帰国。日本に天台宗を伝える。 |
| 40歳 | 806年 | 勅許により、天台宗が正式な宗派として認められる。 |
| 46歳 | 812年 | 空海から密教の「灌頂(かんじょう)」を受ける。 |
| 47歳 | 813年 | 空海に経典の借用を断られ、密教の解釈を巡り決別する。 |
| 52歳 | 818年 | 「山家学生式(さんげがくしょうしき)」を定め、比叡山独自の戒壇を求める。 |
| 54歳 | 820年 | 南都(奈良)仏教側の徳一との間で「三一権実論争」という激しい論争を行う。 |
| 56歳 | 822年 | 比叡山中道院にて示寂(死去)。 |
| (没後) | 822年 | 死去の7日後、悲願だった「大乗戒壇」の設立が許可される。 |
| (没後) | 866年 | 清和天皇より、日本初の「大師号」である伝教大師を贈られる。 |
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