勝海舟(かつ かいしゅう)は、幕末から明治にかけて活躍した「江戸無血開城」の立役者です。
新選組や高杉晋作が現場で戦う「剣」や「銃」の力だったとすれば、勝海舟は圧倒的な先見性と外交力という「知」と「言葉」の力で、日本を内戦の危機から救いました。
勝は身分の低い旗本の家に生まれ、非常に苦労して育ちました。
幕末の英雄・坂本龍馬は、もともと「開国を唱える勝海舟を斬る」つもりで彼を訪ねました。しかし、勝から世界情勢や海軍の必要性を説かれると、そのスケールの大きさに心服し、その場で弟子入りしてしまいました。 勝が神戸に作った「海軍塾(神戸海軍操練所)」から、後の日本海軍の礎となる人材が多く輩出されました。
1868年、新政府軍が江戸へ総攻撃を仕掛けようとした際、勝は徳川幕府の代表として、新政府軍の参謀・西郷隆盛と直談判を行いました。
明治維新後、多くの旧幕臣が新政府に仕えることを拒みましたが、勝はあえて新政府に出仕しました。
勝海舟は「敵を作らない」のではなく、「敵すらも味方にしてしまう」大きな器の持ち主でした。
「行いは俺のもの、批判は他人のもの。俺の知ったことじゃない」
この言葉通り、幕府側からも新政府側からも批判されることがありましたが、彼は常に「日本全体にとって何が最善か」だけを考えて行動しました。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1823年 | 江戸・本所に生まれる |
| 1860年 | 咸臨丸の艦長として渡米。ホワイトハウスを訪問 |
| 1862年 | 軍艦奉行並に就任。坂本龍馬が弟子入りする |
| 1868年 | 西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現 |
| 1872年 | 明治政府の海軍大輔(後の海軍卿)に就任 |
| 1899年 | 75歳で死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」 |
豆知識:剣術の達人なのに「抜かない」 勝海舟は直心影流の免許皆伝という剣術の達人でしたが、幕末の動乱期でも、一度も人を斬ったことがなかったと言われています。「刀は人を斬るためのものではなく、自分を律するためのもの」という哲学を持っていました。
勝海舟が気に入った地
🙂 勝海舟と西郷隆盛は、園内の四阿(あずまや... 勝海舟と西郷隆盛は、園内の四阿(あずまや)で会談をもった。この四阿は非現存で再現したとされる茶室・浄庵がある。