馬込文士村(まごめぶんしむら)とは、 大正時代から昭和初期にかけて、東京・大田区山王〜南馬込一帯に多くの文学者・芸術家が集まり、暮らした地域の呼び名です。日本近代文学史において重要な文化圏のひとつとされています。
馬込文士村には、以下のような著名な作家が暮らしていました。
彼らは近隣に住み、互いに交流しながら作品を生み出しました。
馬込文士村の活気を作り出したのは、1923年(大正12年)に移り住んできたこの二人だと言われています。
馬込は詩人が多く住んだことでも有名で、以下の4人は特に「馬込の四大詩人」と呼ばれます。
当時の文士たちは、遊び方によってグループ分けされていました。
| グループ名 | メンバー |
|---|---|
| 酒飲まぬ「麻雀・花引き」組 | 広津和郎、宇野千代、間宮茂輔など |
| 酒飲み「駄弁(おしゃべり)」組 | 尾﨑士郎、榊山潤、吉田甲子太郎など |
| 酒飲み「ダンス」組 | 萩原朔太郎、衣巻省三など |
| 酒もギャンブルもやらぬ「超然組」 | 川端康成 |
豆知識: 馬込文士村の歴史や文士たちの素顔を知るには、大田区の「尾﨑士郎記念館」や「山王草堂記念館(徳富蘇峰旧居)」、「大田区立郷土博物館」を巡るのがおすすめです。
山口県岩国市出身の作家・デザイナーである宇野千代(1897年 - 1996年)について解説します。
彼女は、明治・大正・昭和・平成の4つの時代を駆け抜け、98歳で亡くなるまで現役の作家として活動し続けました。その自由奔放でポジティブな生き方は、多くの女性から支持されています。
1921年、懸賞小説に応募した『脂粉の顔』が1等に入選し、作家デビューを果たしました。
『生きて行く私』: 自らの波乱万丈な半生を綴った自伝的小説で、ミリオンセラーとなりました。
作風: 「幸福教の教祖」とまで呼ばれるほど楽天的な考え方や、みずみずしい文体が特徴です。
宇野千代は、作家以外にも実業家・デザイナーとして先駆的な役割を果たしました。
桜をこよなく愛したことでも有名です。岐阜県本巣市の「淡墨桜(うすずみのさくら)」が枯死の危機にあった際、当時の岐阜県知事に手紙を送るなど、その保護と蘇生のために奔走しました。彼女の尽力により桜は見事に復活し、現在も日本三大桜の一つとして親しまれています。
「恋多き女」としても知られ、尾崎士郎(作家)、東郷青児(画家)、北原武夫(作家)など、多くの文化人と恋愛・結婚・同棲を経験しました。
岩国は彼女が生まれ育った場所であり、名作『おはん』の舞台でもあります。
宇野千代生家 明治初期に建てられた町家で、彼女自身の手によって修復されました。現在は一般公開されており、彼女が愛用した文机や鏡台、着物などの調度品が展示されています。庭園も美しく、岐阜から移植された「淡墨桜」の二世を見ることもできます。
教蓮寺 宇野千代の墓所があります(東京都港区の梅窓院にも分骨されています)。墓石には彼女の座右の銘である「幸福は幸福を呼ぶ」という言葉が刻まれています。
錦帯橋周辺の「幸福の言葉」看板 錦帯橋から岩国小学校にかけての街角16か所に、彼女の作品の一節やメッセージを記した看板が設置されています。彼女のポジティブな哲学に触れながら散策を楽しめます。
おはん文学碑 吉香公園の近くにあり、小説『おはん』の一節が刻まれています。
梅窓院(港区・外苑前) こちらにも分骨されたお墓があります。岩国まで行くのが難しいファンも多く訪れる場所です。
馬込文士村(大田区) 多くの文士が暮らしていた地域の総称。かつて尾崎士郎と共に暮らした場所で、近くには「千代と尾崎の旧居跡」の碑が建てられています。
枯死の危機にあったこの樹を救うために奔走
🙂 錦川には何度も橋をかけたが何度も流れ、三... 錦川には何度も橋をかけたが何度も流れ、三代藩主の頃の1673年にこのような橋が架けられ270年以上流れなかった。
千代の墓所