金ヶ崎城跡

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    信長、秀吉、秀長がピンチとなり逃走した戦い

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    金ヶ崎の戦い 1570年に起きた織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。このときが浅井長政の裏切りにあい織田側は撤退。豊臣秀吉・秀長は敵軍を引きつける殿(しんがり)を務めた。その後の一乗谷の戦い(1573年)で朝倉氏は滅亡した。


  • 金ヶ崎の戦い

    金ヶ崎(かねがさき)の戦い(1570年)は、織田信長の生涯において最も窮地に立たされた「絶体絶命の撤退戦」として知られています。別名「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」とも呼ばれます。

    信長が天下取りへの階段を駆け上がる途中で起きた、衝撃的な裏切りとドラマについて解説します。


    1. 戦いの背景:突然の裏切り

    信長は、越前(福井県)の朝倉義景を討つため、同盟相手である徳川家康とともに軍を進めていました。順調に朝倉方の城を落としていたその時、衝撃的な知らせが届きます。

    • 浅井長政の離反: 信長の妹・お市の方の嫁ぎ先であり、堅い同盟を結んでいた北近江の浅井長政が、突如として信長を裏切り、背後から襲いかかろうとしたのです。
    • 挟み撃ちの危機: 前方には朝倉、後方には浅井。信長軍はこのままでは全滅という、袋のネズミ状態に陥りました。

    2. 信長の決断:電撃的な撤退

    知らせを受けた信長は、当初「そんなはずはない」と否定したと言われますが、事実だと悟るや否や、即座に撤退を決めました。

    • 朽木(くつき)越え: 信長はわずかな供だけを連れて、険しい山道を抜ける最短ルートで京都へと逃げ帰りました。この時、信長を助けた地元の豪族・朽木元綱の決断も、歴史の分かれ目となりました。

    3. 「殿(しんがり)」の死闘

    全軍が壊滅するのを防ぐため、敵の追撃を食い止める最も危険な役目「殿」に志願したのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)でした。

    • 秀吉と秀長の結束: 秀吉は弟の小一郎(秀長)や、蜂須賀小六といった子飼いの家臣とともに金ヶ崎城に踏み止まりました。
    • 明智光秀との共同戦線: 実はこの時、秀吉だけでなく明智光秀や池田勝正らも協力して殿を務めています。
    • 奇跡の生還: 圧倒的な兵力差の中、彼らは知略と執念で敵を足止めし、ボロボロになりながらも奇跡的に京都へ生還しました。この功績で秀吉の信長内での評価は爆上げとなりました。

    4. 戦いの結果と影響

    この敗北は、その後の戦国史に大きな影響を与えました。

    • 信長包囲網の形成: これを機に、各地の反信長勢力が結託する「第一次信長包囲網」が出来上がります。
    • 姉川の戦いへ: 激怒した信長は、このわずか2ヶ月後に浅井・朝倉連合軍と「姉川の戦い」で激突し、報復することになります。

    金ヶ崎の戦い 登場人物の動き

    人物 役割 その時の行動
    織田信長 総大将 挟み撃ちを察知し、即座に京都へ脱出。
    浅井長政 裏切り 朝倉との旧誼を選び、義兄・信長を急襲。
    木下秀吉 殿(将) 「死に役」を引き受け、秀長らと殿を完遂。
    お市の方 連絡者 (伝説では)陣中見舞いの小豆の袋の端を縛り、袋のネズミであることを兄・信長に伝えたとされる。

    この戦いで秀吉とともに死線を越えた弟・秀長は、この後に信長から与えられた「長浜」での統治において、兄を支える行政官としての才能を開花させていきます。

    秀長が長浜でどのような役割を果たしたのか、続けてお話ししましょうか?

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