崇峻天皇は、古墳時代末期(6世紀後半)の第32代天皇です。在位期間は西暦587年から592年とされています。日本の歴史上、「臣下によって暗殺された」ことが記録されている唯一の天皇として知られています。
1. 出自と即位の背景
- 父: 欽明天皇
- 母: 蘇我小姉君(蘇我稲目の娘)
- 名: 泊瀬部皇子(はつせべのみこ)
当時、朝廷では仏教受容を巡って蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)の対立が激化していました。587年の「丁未の乱(ていびのらん)」で蘇我馬子が物部守屋を滅ぼすと、馬子の強い後押しによって泊瀬部皇子が即位しました。
2. 蘇我馬子との対立
即位後、次第に実権を握る蘇我馬子との間に深い溝が生まれます。
- 政治的主導権: 天皇として自ら政権を運営しようとする姿勢が、権力を維持したい馬子には不都合でした。
- 猪の逸話: 日本書紀には有名なエピソードが残っています。献上された猪の目を指して天皇が、「いつかこの猪の首を切るように、自分が憎いと思っている者(馬子)を斬りたいものだ」と漏らしたとされています。
3. 暗殺とその最期(592年)
天皇の言葉を伝え聞いた蘇我馬子は、先手を打って暗殺を計画しました。
- 実行犯: 東漢駒(やまとのあやのあたいこま)
- 特異な葬儀: 暗殺されたその日のうちに葬儀が行われ、埋葬されるという異例の事態となりました。これは当時の天皇の葬儀としては極めて不自然であり、馬子の権力の大きさと、事態がいかに異常であったかを物語っています。
その後の影響
崇峻天皇の死後、馬子は自身の姪にあたる推古天皇を即位させました。これにより、日本初の女帝が誕生し、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政として政治の舞台に登場する「飛鳥時代」へと本格的に移り変わっていくことになります。
関連する史跡
- 倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ): 奈良県桜井市にあるとされる陵墓です。
- 崇聖寺跡: 天皇の住まい(倉梯柴垣宮)があったとされる場所に位置しています。
この時代の権力闘争の激しさを象徴する人物と言えます。