千利休(せんのりきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した「茶聖」と称される茶人です。
ただお茶を点てるだけでなく、日本独自の美意識である「わび茶」を完成させ、現代の茶道(表千家・裏千家・武者小路千家)の源流を築いた人物として知られています。
利休以前の茶の湯は、高価な中国製の器(唐物)を自慢する華やかなものでした。しかし利休は、それとは真逆の価値観を提示しました。
利休は自分の理想とする茶碗を作るため、瓦職人だった長次郎に命じて「楽茶碗(らくぢゃわん)」を作らせました。 ろくろを使わず手でこねて形を作る「手練ね(てづくね)」の手法を用い、黒一色の装飾を削ぎ落としたデザインは、当時の価値観からすれば非常に前衛的なものでした。
秀吉の最側近として権勢を振るった利休ですが、晩年に秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられます。その理由は諸説あり、現在も謎に包まれています。
1591年、利休は享年70歳で自害しました。切腹の間際まで茶を点て、凛とした態度で逝ったと伝えられています。
利休が説いた茶道の心得は、現代の人間関係やビジネスにも通じる教えです。
「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて事足るなり」 (家は雨漏りしなければ十分、食事もお腹を満たせれば十分。それ以上の贅沢を求めず、今あるものに美を見出すことこそが本質である。)
千利休の生涯を、主要な出来事を中心にまとめた年表です。
利休は単なる茶人にとどまらず、織田信長や豊臣秀吉という時の権力者の側近として、政治の表舞台でも重要な役割を果たしました。
| 年(和暦) | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1522年(大永2) | 0歳 | 和泉国堺の商家(とと屋)に生まれる。幼名は与四郎。 |
| 1538年(天文7) | 17歳 | 北向道陳に茶を学び始める。その後、武野紹鴎に師事。 |
| 1540年(天文9) | 19歳 | 父・田中与兵衛が死去。家督を継ぐ。南宗寺の法師・大林宗套に参禅。 |
| 1544年(天文13) | 23歳 | 記録に残る最初の茶会を開催(松屋会記)。 |
| 1570年(元亀1) | 49歳 | 織田信長に召し抱えられ、茶頭(さどう)となる。 |
| 1575年(天正3) | 54歳 | 信長が催した越前平定の祝茶会で茶を点てる。 |
| 1582年(天正10) | 61歳 | 山崎に茶室「待庵(たいあん)」を造営。本能寺の変後、豊臣秀吉に仕える。 |
| 1585年(天正13) | 64歳 | 正親町天皇に茶を献じる(禁裏茶会)。天皇より「利休」の号を賜る。 |
| 1587年(天正15) | 66歳 | 秀吉の九州平定に同行。京都にて「北野大茶湯」を主管。 |
| 1589年(天正17) | 68歳 | 大徳寺の山門(金毛閣)を改修。自身の木像を楼上に安置する。 |
| 1590年(天正18) | 69歳 | 小田原征伐に同行。陣中で茶を点てる。 |
| 1591年(天正19) | 70歳 | 2月13日、秀吉により堺への蟄居を命じられる。 2月28日、聚楽第内の屋敷にて切腹。 |
利休が確立した「わび茶」の精神は、彼の死後、孫の千少庵や千宗旦を経て、現在の「三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)」へと受け継がれていくことになります。