仁徳(にんとく)天皇は、第16代天皇であり、日本の歴史において「聖帝(ひじりのみかど)」と称えられる名君の代名詞的な存在です。
神武天皇が「建国の父」なら、仁徳天皇は「仁政(思いやりの政治)の象徴」といえます。
仁徳天皇を語る上で欠かせないのが、教科書などでも有名なこのエピソードです。
神話的なエピソードだけでなく、実務面でも大きな功績を残しています。現在の大阪(難波)を拠点とし、インフラ整備を積極的に行いました。
大阪府堺市にある大山(だいせん)古墳は、仁徳天皇の御陵として管理されています。
神武天皇のような「神話の色が濃い人物」に比べ、仁徳天皇の時代(5世紀頃)は、巨大古墳の存在や中国の史書との整合性から、「実在した可能性が非常に高い大王(おおきみ)」と考えられています。
豆知識: 仁徳天皇の誕生時には「フクロウ」が、同日に生まれた大臣の子の元には「ミサゴ(鳥)」が飛び込み、名前を交換したという不思議な誕生神話も残っています。
仁徳天皇が「聖帝(ひじりのみかど)」として完璧な君主像を描かれる一方で、プライベート(夫婦関係)では非常に人間臭く、波乱万丈な物語が残されています。
皇后・磐之媛(いわのひめ)は、古代の有力豪族・葛城(かつらぎ)氏の出身で、「日本史上最強の嫉妬深い皇后」として知られています。
磐之媛は非常にプライドが高く、仁徳天皇が他の女性を後宮に入れることを一切許しませんでした。 『古事記』には、「その嫉妬(ねたみ)、いとも甚(はなは)だし」と記されるほどで、天皇が他の妃を迎えようとするたびに激しく怒り、宮中を凍りつかせたと伝えられています。
ある日、磐之媛が宴会に使う「御綱葉(みつなば)」という葉を採りに紀伊国(和歌山県)へ出かけていた留守中、事件は起こりました。
焦った仁徳天皇は、歌を詠んで使者を送り、必死に機嫌を直してもらおうとします。
天皇の歌のニュアンス: 「君がいないと寂しい。戻ってきておくれ」
しかし、磐之媛の怒りは収まりません。追ってきた使者の言葉も無視し、筒城(現在の京都府京田辺市)に勝手に宮殿を建てて住み着いてしまいました。 結局、磐之媛は死ぬまで仁徳天皇のいる宮へ戻ることはありませんでした。
この物語には、単なる「女の嫉妬」以上の背景があると考えられています。
磐之媛が亡くなった後、仁徳天皇はついに八田皇女を皇后に迎えます。 しかし、これほどまでに愛憎劇を繰り広げた仁徳天皇と磐之媛の間には、後の履中天皇、反正天皇、允恭天皇という3人の天皇となる息子たちが生まれており、夫婦としての絆もまた、非常に強固なものであったことが伺えます。
「聖帝」と呼ばれた立派な天皇が、奥さんの機嫌取りに必死になったり、家出されて困り果てたりする姿は、古代の人々にとってもどこか親近感の湧くエピソードだったのかもしれません。
仁徳天皇の異母妹であり、後に皇后となった八田皇女(やたのひめみこ)。彼女は、正妻・磐之媛(いわのひめ)の激しい嫉妬に翻弄されながらも、最終的には皇后の座に就いた忍耐と悲劇の女性として描かれています。
八田皇女が仁徳天皇の妃となる背景には、彼女の同母兄である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の存在があります。
ついに仁徳天皇が行動に出たのは、磐之媛が祭祀に使う葉(御綱葉)を採りに紀伊国へ出かけた隙でした。
磐之媛の死後、八田皇女は正式に皇后に立てられました。しかし、彼女の周囲には再び悲劇が起こります。
八田皇女は、仁徳天皇の「聖帝」としての輝かしい功績の裏側で、ドロドロの愛憎劇に巻き込まれたヒロインでした。 彼女がいたからこそ、磐之媛の家出という前代未聞の事件が起き、仁徳天皇の人間味あふれる(あるいは少し情けない)一面が歴史に刻まれることになったとも言えます。
仁徳天皇の家系図は少し複雑ですが、この「家出」や「逃亡劇」の舞台となった地名(難波、筒城、宇治など)の歴史について、さらに詳しくお話ししましょうか?