豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)は、豊臣秀吉の姉・智の子で、秀吉の養子となり豊臣政権の2代目関白を務めた人物です。
かつては「殺生関白」と呼ばれ、素行の悪い暴君として描かれることが多かったのですが、近年の研究では「有能な行政官であり、理不尽に粛清された悲劇の武将」という評価が主流になっています。
彼の生涯を、「功績」「秀次事件の真相」「悲劇の最期」に分けて解説します。
秀次は、決して無能な親族ではありませんでした。
1593年、秀吉に実子の秀頼が誕生したことで、秀次の運命は暗転します。1595年、突如として「謀反の疑い」をかけられました。
1595年7月、秀次は高野山へ追放され、そこで切腹しました。享年28。
秀次の一族は皆殺しにされたと思われがちですが、一部の娘は生き延びました。
豆知識: 秀次はかなりの「文化人」でもあり、和歌や古典に親しみ、当時の一流の知識人と交流していました。彼が愛用した刀剣の鑑定眼なども鋭かったと言われています。
豊臣秀次の生涯は、叔父・秀吉の天下統一の歩みと密接に連動しており、その成功と悲劇は常に秀吉の血統問題に翻弄されてきました。
| 年(西暦) | 年齢(数え) | 出来事 |
|---|---|---|
| 1568年 | 1歳 | 尾張国で生まれる。父は三好吉房、母は秀吉の姉・とも(瑞龍院)。 |
| 1570年代 | - | 秀吉の命により、宮部継潤や三好康長の**養子(人質)として諸家を渡る。 |
| 1582年 | 15歳 | 本能寺の変。叔父・秀吉が天下人への道を歩み始め、秀次も一門として復帰。 |
| 1583年 | 16歳 | 賤ヶ岳の戦い。佐久間盛政の急襲を受け大敗を喫し、秀吉から厳しく叱責される。 |
| 1584年 | 17歳 | 小牧・長久手の戦い。徳川家康の奇襲を受け再び失態。一時は廃嫡も検討される。 |
| 1585年 | 18歳 | 紀州征伐、四国征伐で武功を挙げ名誉挽回。近江八幡43万石を与えられ、善政を敷く。 |
| 1590年 | 23歳 | 小田原征伐。山中城攻略などで活躍。織田信雄の旧領である尾張・伊勢を与えられる。 |
| 1591年 | 24歳 | 秀吉の弟・秀長と、嫡男・鶴松が相次いで死去。秀次が秀吉の養嗣子**となる。 |
| 1592年 | 25歳 | 秀吉から関白の位を譲られ、二代目関白に就任。聚楽第を本拠とする。 |
| 1593年 | 26歳 | 淀殿が秀頼を出産。秀次の後継者としての立場が極めて不安定になる。 |
| 1595年 | 28歳 | 秀次事件(粛清) 7月3日:石田三成らより謀反の疑いをかけられる。 7月8日:高野山へ追放される。 7月15日:高野山・青巌寺にて切腹。8月2日:京都・三条河原で妻子30余名が処刑される。 |
秀次の死後、その一族が根絶やしにされたことは、豊臣恩顧の大名たちの心に不信感を植え付け、後の関ヶ原の戦いでの敗北へとつながる「豊臣政権崩壊の始まり」だったと多くの歴史家が指摘しています。
秀次が描いたとされる五穀豊穣という名の絵が発見された。
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