紫式部とは
- 源氏物語(世界最古の長編物語)の作者
- 970年頃誕生、1014年頃死去
- 越後守・藤原為時の娘として生まれる
- 紫野(京都)で生まれたと言われる。
- 紫式部の「紫」は紫野、「式部」は父・為時が式部丞だったことが由来といわれる。
- 大河ドラマ「光る君へ」
年表
- 970年頃
- 父・藤原為時と母・藤原為信女が結婚。
- 971年
- 姉(名前不明) 誕生。
- 973年
- 紫式部 誕生。*生没年は所説あり
- 974年
- 弟・惟規が誕生。
- 母・為信女は亡くなったと考えられる。
- 977年
- 花山天皇即位、父・為時が式部丞蔵人となる。
- 993年頃
- 清少納言が藤原定子に仕える。
- 996年
- 越前守となった為時に同行して越前国へ。
- 998年頃
- 藤原宣孝と結婚。*宣孝は47歳、紫式部は26歳ぐらい
- 999年
- 娘・賢子が誕生。
- 1001年
- 父・為時が越前国から帰京。
- 弟・宣孝が死去。
- 1004年
- 石山寺で「源氏物語」を書き始めたと云われる。
- 1005年
- 一条天皇の中宮・藤原彰子に仕える。
- 1008年
- 「紫式部日記」が書き始められる。
- 中宮・藤原彰子は、一条天皇に「源氏物語」を献上。
- 1010年
- 源氏物語の後半「宇治十帖」を書き始めたといわれる。
- 1011年
- 一条天皇が崩御。
- 父・為時が越後守として越後国へ。
- 弟・惟規が越後国で死去。
- 1014年
- 紫式部死去。 *生没年は所説あり
大河ドラマ「光る君へ」 登場人物抜粋
- 紫式部
- 吉高由里子
- 藤原為時(ためとき) *紫式部の父
- 岸谷五朗
- ちやは *紫式部の母
- 国仲涼子
- 藤原惟規(のぶのり) *紫式部の弟
- 高杉真宙
- 藤原宣孝(のぶたか) *紫式部の夫
- 佐々木蔵之介
- 藤原道長(みちなが)
- 柄本佑
- 藤原兼家(かねいえ)*道長の父
- 段田安則
- 藤原詮子(あきこ)*道長の姉、一条天皇の母。
- 吉田羊
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、織田信長の家臣として多くの戦功を挙げたが、1582年に本能寺で信長を襲撃し。その13日後に山崎の戦いで敗れた。
- 1528年
- 美濃国の斎藤道三の家臣で土岐氏の一族、明智光綱の子として生まれる。
- 1535年
- 父が死去し、家督を相続。叔父の明智光安の後見を受ける。
- 1556年
- 斎藤道三と長男の斎藤義龍が争い、明智城が落城。明智家は離散し、浪人となる。
- 1562年
- 越前国の朝倉義景に仕える。鉄砲隊を率いて加賀一向一揆と戦う。
- 1568年
- 足利義昭の幕臣となり、織田信長に仕える。信長に担がれて上洛した義昭が15代将軍に就任。
- 1570年
- 足利義昭と信長が対立。姉川の戦いで信長に味方し、浅井・朝倉連合軍に勝利。
- 1571年
- 信長に従って比叡山焼き討ちを実行。
- 近江国志賀郡5万石を与えられ、坂本城を築城。
- 1573年
- 足利義昭が京都を追放され、室町幕府が滅亡。
- 一乗谷の戦いで朝倉義景を討ち滅ぼす。
- 1575年
- 第一次黒井城の戦いで丹波方面の攻略に失敗。
- 長篠の戦いで武田勝頼を破る。
- 1577年
- 信貴山城の戦いで松永久秀を討つ。
- 丹波方面の攻略を開始。
- 1578年(
- 丹波国に亀山城を築城。二つ目の居城とする。
- 1579年
- 丹波国、八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻め落とす。丹後国の一色義定を降伏させる。丹波国一国(29万石)を与えられる。福智山城(福知山城)を築城。
- 1582年(天正10年)
- 安土城で徳川家康の接待役を務める。
- 6月12日 愛宕神社で連歌会を開催。
- 6月21日 本能寺の変で信長を襲撃し自害させる。
- 7月2日 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、逃走中に討たれる。
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、天下布武を掲げて日本のほぼ全土を制覇しようとしましたが、1582年に家臣の明智光秀に裏切られて本能寺で自害。
- 1534年
- 尾張国の織田信秀の子として生まれる。
- 1546年
- 元服して三郎信長と名乗る。
- 1549年
- 濃姫と結婚する。
- 1552年
- 父が死去し、家督を継ぐ。
- 1559年
- 尾張国を統一する。
- 1560年
- 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。
- 1567年
- 斎藤龍興を討ち、稲葉山城に入る。岐阜と改める。
- 1568年
- 上洛して足利義昭を室町幕府第15代将軍にする。
- 1570年
- 姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る。
- 1571年
- 延暦寺を焼き討ちする。
- 1572年
- 三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れる。
- 1573年
- 足利義昭を京都から追放する。
- 1575年
- 長篠の戦いで武田勝頼を破る。
- 1576年
- 安土城を築城する。
- 1582年
- 本能寺の変で明智光秀に襲われ、自害する。
織田信長の居城巡り
織田信長は幾度となく城を移り住んだと言われています。
- 勝幡城
- 織田信長は1534年、勝幡城(しょばたじょう)で生まれたと考えられています。*那古野城説もあります。
- 現在は石碑があるのみで当時の面影はありませんが、愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町に跨って存在していたと考えられています。
- 那古野城
- 現在の名古屋城の二の丸付近にあった城。1532年に織田信長の父・信秀が今川氏豊を滅ぼし、勝幡城から居城を移しました。
- 名古屋城
- 信長の父・信秀は信長が2歳の時に那古野城を与えています。
- 清洲城
- 1555年に織田信長と織田信光の共謀により守護代の織田信友は殺害され、信長は織田家の当主となり清洲城へ移り住みます。
- 小牧山城
- 1560年6月12日の桶狭間の戦いで今川義元に勝利し、美濃攻略のために小牧山城の築城を開始します。1562年には清須城において徳川家康と清洲同盟を結び、1563年に居城を清洲城から小牧山城に移し、美濃攻略への足掛かりを整えていきます。小牧山城は信長が築いた初めての城です。
- 岐阜城
- 金華山(稲葉山)の山頂に建てられた難攻不落の山城。美濃を制すものは天下を制すとも謳われた。
- 安土城
- 岐阜城にかわる居城として1576年に琵琶湖湖岸に築城開始。1579年に天守に移り住んだと言われており、1582年6月21日の本能寺の変の後に焼失します。現在は石垣などの一部の遺構が残る。
ちなみに織田信長は高層建築物に住んだ初の日本人とも言われています。
樋口一葉(ひぐち いちよう)は、明治時代の女性作家。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などの名作を残すが24歳の若さで肺結核で亡くなった。特に『大つごもり』から『裏紫』にかけての期間は、奇跡の14ヶ月とも言われる。
- 1872年(明治5年)
- 東京府の下級役人の樋口則義と多喜の次女として誕生。
- 1877年(明治10年)
- 私立吉川学校に入学。*後に転校
- 1883年(明治16年)
- 私立青海学校を首席で卒業。母の意向で上級に進まずに退学。
- 1886年(明治19年)
- 中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し、和歌や古典文学を学ぶ。
- 1887年(明治20年)
- 兄の泉太郎が肺結核で死去。
- 1889年(明治22年)
- 父の則義が事業に失敗し、負債を残して死去。一葉が樋口家を継ぐ。
- 1891年(明治24年)
- 半井桃水に小説を学び始める。
- 1892年(明治25年)
- 処女作『闇桜』を発表する。
- 1893年(明治26年)
- 吉原遊郭近くの下谷区竜泉寺町に引っ越し、駄菓子屋を開業する。
- 1894年(明治27年)
- 本郷区丸山福山町に引っ越す。
- 『大つごもり』を発表する。
- 1895年(明治28年)
- 『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などの作品を発表。
- 1896年(明治29年)
- 11月23日 肺結核のため死去。
一葉と関わった主な人物
- 中島歌子
- 一葉の歌塾「萩の舎」の師匠で、和歌や古典文学を教えた。一葉は歌子の影響で小説を書くようになった。
- 半井桃水
- 一葉の小説の師匠で、『闇桜』などの作品を指導した。一葉と桃水の関係は噂になり、一葉は桃水の門を出た。
- 平田禿木
- 文芸誌『文学界』の編集者。一葉の作品を発表する機会を与えた。一葉は禿木の依頼で『たけくらべ』などの作品を書いた。
- 森鴎外
- 明治時代の代表的な作家。一葉の作品を高く評価した。一葉は鴎外の尽力で肺結核の治療を受けたが、助からなかった。
- 田辺花圃
- 一葉の歌塾の先輩で。一葉に小説を出版することを勧めた。一葉と花圃は萩の舎の二才媛と呼ばれた。
- 岸田俊子
- 一葉の死後にデビューした女性作家。一葉の遺稿を整理し、『一葉全集』を出版。
名言など
- 色に迷う人は迷えばいい。 情に狂う人は狂えばいい。 この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。
- 恋とは尊くあさましく無残なものなり。
伊能忠敬(いのうただなか)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。
日本全国を測量した『大日本沿海輿地全図』を完成させた人物。
- 1745年(延享2年)
- 上総国(千葉県)の小関村に生まれる。
- 1762年(宝暦12年)
- 伊能家に婿入りし、忠敬と名乗る。
- 1781年(天明元年)
- 佐原村の名主となる。
- 1794年(寛政6年)
- 家督を長男の景敬に譲り、隠居する。
- 1795年(寛政7年)
- 江戸に出て、高橋至時に天文学を学ぶ。
- 1800年(寛政12年)
- 最初の測量を開始する。
- 1816年(文化13年)
- 江戸を中心とした第十次測量を行う。
- 1818年(文政元年)
- 測量の最中に亡くなる。
- 1821年(文政4年)
- 弟子たちにより『大日本沿海輿地全図』が完成。
大日本沿海輿地全図