おだにじょう

小谷城跡

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長浜市の小谷山(標高約495m)にある城跡。1524年頃に築城され、浅井家が3代にわたり居城としていた。
  • 小谷城跡 清水谷

    小谷城跡 清水谷

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    お江の里・小谷城跡を歩く

  • レビュー写真

    (公社)びわこビジターズビューロー

アクセス 河毛駅→徒歩約25分→登山口→徒歩約25分→本丸曲輪部分
住所
滋賀県長浜市小谷郡上町139

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アドバイス・レビュー

  • 💭

    小谷城の戦い 1573年8月8日~9月1日。浅井長政と織田信長による戦い。浅井長政は居城である小谷城にて5千の軍勢で籠城するなどした。

  • 戦国歴史資料館 のほうから登れます。約30分ぐらいの登山なのでそれなりの覚悟を。車で中腹の大手門跡あたりまでは行けます。
  • 浅井長政とお市の方が暮らした居城。お市の方は織田信長の妹です。最終的には浅井長政と織田信長は戦うことになります。

  • お城用語
  • 小谷城の戦いについて教えて

    小谷城の戦いは、1573年(天正元年)に織田信長が浅井長政を攻め滅ぼした、北近江(現在の滋賀県長浜市)を舞台にした決戦です。

    この戦いによって、三代続いた戦国大名・浅井家は滅亡しましたが、長政の妻・お市の方や、後の歴史に大きく関わる「浅井三姉妹」が生き延びたことでも有名です。

    1. 合戦の基本情報

    • 時期: 1573年(天正元年)8月〜9月
    • 場所: 近江国 小谷城(滋賀県長浜市)
    • 勢力図: 織田信長軍(約30,000) vs 浅井長政軍(約5,000)

    2. 戦いの経緯:朝倉氏の滅亡から小谷城包囲まで

    もともと織田信長と浅井長政は同盟関係にありましたが、信長が浅井の長年の盟友である朝倉氏を攻めたことで長政が反旗を翻し(金ヶ崎の戦い)、以後数年にわたる対立が続いていました。

    1. 朝倉軍の救援失敗: 信長が小谷城を包囲した際、朝倉義景が救援に駆けつけましたが、信長の奇襲により撤退。信長はそのまま越前(福井県)まで追いかけ、先に朝倉氏を滅亡させました。
    2. 孤立無援の小谷城: 後ろ盾を失った長政は、要塞・小谷城に立てこもります。信長は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らに命じて城への総攻撃を開始しました。
    3. 秀吉の奇策: 秀吉は小谷城の弱点であった「京極丸」という曲輪を急襲。これにより、本丸にいた長政と、小丸にいた父・久政を分断することに成功し、浅井軍は一気に瓦解しました。

    3. 結末とその後

    • 浅井親子の最期: 父・久政がまず自害し、その後9月1日に浅井長政も自害しました。享年29。
    • お市の方と三姉妹: 長政は自害の間際、妻のお市の方(信長の妹)と、3人の娘(茶々・初・江)を城から逃がし、織田軍に送り届けました。
    • 髑髏の盃: 勝利した信長は、長政と久政、そして朝倉義景の3人の頭蓋骨を漆で固めて金粉を施し、宴の席で披露したという凄惨なエピソードが残っています。

    この戦いの後、小谷城は廃城となり、功績を認められた秀吉がその資材を使って「長浜城」を築きました。


    浅井氏と織田氏

    浅井氏と織田氏の戦いは、義兄弟・同盟者であった。なぜ激突し、滅亡に至ったのか。その全体の流れを時系列で整理します。


    1. 同盟の成立(1567年頃)

    信長は、上洛(京都へ行くこと)のルートを確保するため、北近江の有力大名・浅井長政に妹のお市の方を嫁がせ、強固な同盟を結びました。

    • 約束: 浅井家と古くからの盟友である「朝倉家」を攻める時は、必ず事前に相談すること。

    2. 金ヶ崎(かねがさき)の退き口(1570年4月)

    最大の転換点です。信長が約束を破り、相談なしに朝倉領へ侵攻しました。

    • 長政の決断: 「義兄・信長」か「盟友・朝倉」か。悩んだ末、長政は朝倉への義理を通し、信長の背後を急襲しました。
    • 信長の逃亡: 前後に敵を抱えた信長は、絶体絶命のピンチに陥ります。木下秀吉(豊臣秀吉)や明智光秀に殿(しんがり)を任せ、命からがら京都へ逃げ帰りました。これが有名な「金ヶ崎の退き口」です。

    3. 姉川(あねがわ)の戦い(1570年6月)

    怒りに燃える信長は、態勢を立て直すとすぐに近江へ侵攻します。

    • 対決: 「織田・徳川連合軍」 vs 「浅井・朝倉連合軍」。
    • 結果: 激戦の末、織田・徳川連合軍が勝利。浅井軍の猛将・磯野員昌が信長の本陣近くまで攻め込む場面もありましたが、最終的には浅井・朝倉軍が敗走し、小谷城へ撤退しました。

    4. 志賀の陣と信長包囲網(1570年9月〜1572年)

    姉川で敗北したものの、浅井氏はしぶとく抵抗を続けます。

    • 包囲網: 浅井・朝倉は、比叡山延暦寺や本願寺、さらに甲斐の武田信玄らと手を結び、信長を四方から囲い込みました(信長包囲網)。
    • 信長の苦境: 信長は比叡山を焼き討ちにするなど強硬策に出ますが、包囲網に苦しめられます。しかし、1573年に最強の敵・武田信玄が病死したことで、状況が劇的に変わりました。

    5. 小谷城の戦いと滅亡(1573年8月〜9月)

    後ろ盾を失いつつある浅井・朝倉に対し、信長が総攻撃を仕掛けます。

    • 朝倉の滅亡: 救援に来た朝倉軍を信長が返り討ちにし、そのまま越前へ攻め込んで朝倉義景を自害させました。
    • 浅井の最期: 孤立した小谷城を秀吉らが攻略。長政は父・久政と共に自害し、浅井氏は滅亡しました。

    争いのポイントまとめ

    出来事 時期 結果・影響
    同盟成立 1567年頃 信長の上洛がスムーズに。お市が嫁ぐ。
    金ヶ崎の退き口 1570年4月 長政の裏切り。信長が人生最大の危機を迎える。
    姉川の戦い 1570年6月 織田・徳川の勝利。浅井側の有力武将が多く戦死。
    志賀の陣 1570年秋 泥沼の持久戦。信長、比叡山を焼く。
    小谷城の戦い 1573年9月 浅井氏滅亡。お市と三姉妹は救出される。