豊臣秀吉や前田利家の死後、天下分け目の主戦場となった関ヶ原。関ヶ原の合戦(1600年10月21日)では西軍・東軍、計15万人の兵がこの地でぶつかった。
豊臣秀吉の死後
1591年の豊臣秀長の死後、戦で活躍した「武断派」と戦以外で活躍した「文治派」の対立、五大老の徳川家康と前田利家の対立など深刻化していった。1599年に前田利家が病死し、徳川家康は益々力を持つこととなった。関ヶ原の戦いで争った東軍・西軍とも多くは豊臣恩顧の武将であり、徳川家康は豊臣家に仇なす者を成敗するという建前で戦の準備をし1600年に天下分け目となる戦いとなった。この時、豊臣家は表向きは静観の立場を取った。
東軍勢力の主な人物
徳川家康(総大将、五大老)、浅野幸長(五奉行)、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、井伊直政、松平忠吉、加藤嘉明、藤堂高虎、山内一豊、前田玄以(五奉行)、増田長盛(五奉行)、本多忠勝
西軍勢力の主な人物
毛利秀元(総大将、五大老)、石田三成(五奉行)、宇喜多秀家(五大老)、小早川秀秋(五大老、裏切る)、長束正家(五奉行)、長宗我部盛親、小西行長、織田信高、島津義弘