源義経が腰越状(こしごえじょう)を書いたとされるお寺。弁慶によって書かれたといわれる腰越状の下書きが展示されており、また境内には「弁慶の手玉石」「弁慶の腰掛石」など弁慶にゆかりのあるものが残る。
- 腰越状
- 壇ノ浦の合戦での勝利後、源頼朝の命により鎌倉に入る事が許されなかった 源義経が頼朝へ心情を綴った手紙で、この満福寺で書かれたといわれる。その後、鎌倉に入る事は結局許されず、恋人であった静御前(しずかごぜん)、弁慶らとともに、奈良の吉野に行き、そこで静御前と別れ、弁慶とともに岩手県の平泉へと逃げ延びた。