中村不折

中村不折(なかむらふせつ)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家・書家。夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵、新宿中村屋のロゴなどでも知られている。また、中国の書道に深い関心を持ち、書跡を収集。1936年には、自らのコレクションを展示する書道博物館(台東区)を開館。
清酒「日本盛」、宮坂醸造の清酒「真澄」、新宿中村屋のロゴなどで知られる。
1866年(慶応2年)7月10日
江戸京橋に生まれる。本名は鈼太郎。
1870年(明治3年)
一家で父の郷里の長野県高遠(長野県伊那市)に移住。
1887年
高橋是清邸の空き部屋に住みながら、画塾「不同舎」に入門。
1894年
正岡子規に出会い、日本新聞社で挿絵を担当。
新聞「小日本」に俳句が掲載され、「不折」の名を使用する。
正岡子規とともに日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持つ。
1895年(明治28年)
日清戦争に従軍。
1901年
渡仏 *1905年まで
1905年
夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を担当。
1913年(大正2年)
書道博物館(後の台東区立書道博物館)を開設。
1936年(昭和11年)
聖徳記念絵画館の壁画が完成。
1943年6月6日
東京都下谷区の自邸で死去。享年78。

関連人物

森鷗外、正岡子規、夏目漱石らとも親しかったことで知られる。
1894年には正岡子規に出会い、日本新聞社の発行する新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。
漱石は不折に「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という旨の手紙を送っている。
森鷗外が没した際は、「書ハ中村不折ニ依託シ、宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ」」との遺言により、不折が墓碑銘を揮毫した。
  • 夏目漱石…「吾輩は猫である」の挿絵を担当
  • 横山大観…太平洋画会で共に活動
  • 岡田三郎助…太平洋画会で共に活動
  • 川端龍子…太平洋画会で共に活動
  • 藤島武二…太平洋画会で共に活動
  • 岡倉天心…帝国美術院の創設に尽力
  • 正岡子規…日本新聞社では同僚。「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」は中村不折が奈良旅行を勧めたのがきっかけ。
最終更新日 2024/01/08